語学ノオト

語学を学ぶためのメモ書き

外国語を教えることについて

外国語を学び、少し慣れてくるようになるとその経験を人に伝えてはどうかという気になる。幸い、世間には外国語を学びたいという人びとがたくさんいて(なぜ英語だけなのか、はさておき)、外国語を話せると役に立つ場面もある。

例えば英語が話せない人が英語を話したいと思うとする。どうすれば自分は英語を話せるようになるのか。その動機はさまざまである。仕事に直結する人、進学に役立つ人、余暇を充実させたい人、などなど。しかし皆が一様に英語を話したいと願う。それではどうすれば良いか。

 

結論を先に言ってしまえば、身も蓋もない言い方になるがその個人個人に向き合うしかない。各々が求める動機は様々であり、これで大丈夫ですと言い切れる特効薬があるわけではない。日々、英語に接しながらその言語に慣れていくしか方法はない。赤ちゃんが言葉を覚えるように一つずつ、一つずつ。

ひょっとすると、「何らかの方法で短期間に効率的に言葉を覚える」ということが成り立つのかどうか考えてみても良いかもしれない。短期間で母国語以外の言語を学べるようになるのか。

 

現時点での自分の感想を言えば、短期間で外国語を習得することは可能であろう、しかし短期間は自分が望むそれではない、というところか。この世に生を受けて肉親以外の人と言葉を使って何らかのコミュニケーションを取れるにようになるには、最低でも10年はかかるのではないか。例えば、小学校5年生と話しをすることを考えてみてほしい。もちろん日本語でやり取りはできるが、その内容はとても制約されたものになるはずだ。その会話の内容は一般の社会人の日常とはかけ離れたものになる。おそらく「会話を楽しむ」というのとは程遠い内容になるだろう。

外国語を学ぶ自分は社会経験は豊富でも、話せる語彙は小学校5年生程度しかないとすればどうだろうか。少し背筋が寒くなるかもしれない。言いたいことがないわけではないが、アウトプットする方法がない。知らない言葉は話せない。そういうことだ。

 

少し話しが脱線してしまったような気もするが、言いたいことは「効率的に言葉を学ぼうとしないこと」である。一直線に外国語が学べるようになるなんて幻想は抱かないこと。言葉とはいろんな体験を通じて、その状況に応じて身に付くものだから短時間で簡単に身に付くものでない、と改めて認識すること。要するに「忘れてなんぼ」ということである。その言葉を忘れるのは使わないから、必要ないからだ、と割り切ること。必要になったときに覚えれば良い、それだけ。

 

何より大切なのは、繰り返しになるが「日々、使うこと」これに尽きる。日常の中でその言語に触れる機会を持つこと。考えてみれば当たり前だ。人間が言葉を覚えるのはそれが自分の生活に必要だからだ。必要がないことを覚えておけるほど人間の脳は賢くない(だろう)。そう考えると外国語を学ぶことの意味が少し違って見えてくるのではないだろうか。